アッタルマヌンの歴史
概要
カテゴリー | 歴史・伝説/国家・地域の歴史 |
関連組織 | アッタルマヌン ロドゥニ=ローワン |
主な出来事 | アタル=マリニの定住 マラカシャトの入植 第一次ドワーフ侵攻 ニクラシャッド焼き討ち事件 第二次ドワーフ侵攻 クルチャップ・モレ講和会議 |
概説
現在ドーン世界最大規模の商業域として知られるアッタルマヌンは、“肥えたぬかるみの所有者”アタル・マリニ族の定住からその歴史が始まった。
やがて行商を生業とする“黄金踏む民”マラカシャト人の流入により複数都市が建設。現代まで続く商業都市同盟の根幹が完成する。
ドワーフ国家ロドゥニ・ローワンによる侵攻を経て一時的にその支配下に入るも、第二次侵攻でこれを撃退、自治権を確立した。
アッタルマヌン商業域の成立
古来よりアッタルマヌン河の流域は肥沃な土を抱えた穀倉地帯として、また香辛料・香料の産地として知られており、そこにはアタル・マリニと呼ばれる人々による定住があった。豊富な食料供給によって備蓄に頼る必要がなく、従って古代には都市が建設されなかったため、小規模な村落の集合体として形成されていた。
後に、河口近くに住むカワイルカの鯨油を求めてマラカシャト人が流入。河口で捕れた資源を上流に運ぶために、河口から等間隔に寄港地を建設。これが現在まで残る東岸都市群の原型となる。
やがてアタル・マリニと、彼らが持つ豊富な穀物と香辛料に目をつけたマラカシャトの行商人との間で交流が生まれ、初期の市場が形成される。
市場拡大と内部紛争
アタル・マリニとマラカシャトの交易が拡大するにつれ、取引は個人対個人の小規模なものから都市対都市の貿易となった。
アタル・マリニ側の主要な輸出品は香料・香辛料と穀物であった。これまでは生活必要量以上の穀物が生産されることはなかったが、輸出品としての需要の増加から集団的な農地で大規模な生産が求められるようになり、アタル・マリニ人の都市建設及び都市定住化を促した。
貿易が活発になるにつれ、その噂は行商を生業とするマラカシャト人によって拡散され、アッタルマヌン沿岸は世界中の商人が注目する市場になった。
ここで問題となったのが交易権である。アッタルマヌン内の貿易から外部との貿易に比重が移り変わるにつれ、行商との交易権においてアタル・マリニとマラカシャトは鋭く対立する。
特に、アッタルマヌンのマラカシャト商人と行商のマラカシャト商人が結託して穀物の交易権を独占しようとした事件は、直接的な穀物の生産者でもあったアタル・マリニの強い反発を呼んだ。
アッタルマヌンにおける両民族の対立はやがて散発的な紛争という形で表面化する。ただし、紛争中にも依然として交易は活発に行われており、交易の停滞は双方に不利益をもたらすため、水上での戦闘行為の禁止が暗黙の協定となっていった。結果としてアッタルマヌン地域は広範な水流を抱えながら水軍が発展せず、水上戦闘はもっぱら川賊への対処に限られた。
一方で都市圏内での暴力行為が独自に発展し、これは後に「アッタルマヌン交渉術」として知られる。交渉と暴力は不可分で明確な区分がなくなり、資本力のある豪商は資金で暴力手段を確保することにより、より有利な交渉を展開した。
第一次ドワーフ侵攻
“道王”ラダドルフ=トルナク率いるロドゥニ=ローワンはアッタルマヌン交易圏の近隣にある大規模経済圏であり、アッタルマヌン商人はその専制的な政治形態に危機感を持っていたため長年緊張状態にあった。
両者は直接的な衝突はせず、ラダドルフの遠征の際は対立する諸侯にアッタルマヌンが資金融資をする形で軍事活動を妨害していたが、やがてラダドルフは名高い「万州一靴」を成し遂げる。
征服対象を失ったラダドルフの領土的野心が次に向かったのがアッタルマヌンであった。内陸国であるロドゥニ=ローワンは海への玄関としてアッタルマヌン河の支配を望み、「日常的に暴力行為にさらされているアッタルマヌン貿易の保護」を開戦事由としてアッタルマヌン全域に宣戦布告。暁星シウの時代照紀3068年に侵攻を開始する。
これに対抗してアッタルマヌン諸都市は民族間の垣根を超えた対ドワーフ軍事同盟を締結する。
アッタルマヌン連合軍総司令官ドニヤクは陸戦力を主体とした防衛計画を立案。これには前述の通りアッタルマヌン水軍が戦力不足であるという理由の他に、雨季に入ると沿岸一帯が泥濘と化し進軍が著しく困難となるため、一定期間の防衛によって敵が退却するだろうという目論見があった。
しかし、都市単位の民兵の連合であるアッタルマヌン連合軍と、大陸打通を成し遂げた精鋭ロドゥニ=ローワン軍では練度に明確な格差があり、連合軍は各地で敗走。
また、頼みの綱であった雨季による泥濘も、ロドゥニ=ローワン陸軍の主戦力である蝸牛騎兵部隊にはほとんど影響を与えずに踏破されてしまう。
アッタルマヌン諸都市は上流から順に徹底的な破壊の憂き目にあった。この責任を追求され、ドニヤクは斬首刑に処された。
(アッタルマヌン西岸はアタル・マリニ諸都市であり、これらの都市は穀物供給地としての側面もあったため、ドワーフによる破壊活動は東岸がより苛烈であった。現在残る都市が下流に行くほど古く、また西岸のほうが古い傾向にあるのはこのためである)
3072年には、マラカシャト系都市の中央商館を有するニクラシャッド焼き討ち事件が発生。マラカシャトは中央商館をバトゥナダールに移しこれに抵抗するが、この時点でアッタルマヌンの敗北は決定的なものになりつつあった。
同年ベレイオン節三の月、ロドゥニ=ローワン軍総指揮官であるラダドルフが頓死。(これには病死説、暗殺説などがある)
引き継いだ二代目タルノフ=トルナク王はクルチャップ・モレで和平条約を締結。第一次ドワーフ侵攻が終結する。
タルノフ王が条約締結に乗り出した理由として度重なる遠征による軍の疲弊、ロドゥニ中央軍の不在による“大街道”諸国の反乱の気配などが挙げられる。
元々このアッタルマヌン侵攻は開戦以前から無理のある軍事作戦とする声も強かった。既に街道打通がなされたとはいえ周辺諸国とは未だに緊張状態にある中でこれ以上の戦線を開くのは兵員不足を招く恐れがある点、さらに、ロドゥニ=ローワン側もまた水軍を有していない点などが懸念材料となっていたためである。
とはいえ戦況が一貫してロドゥニ側有利で展開されたことも事実であり、拡張主義者からは停戦は弱腰だという声もあった。
連戦連勝中の侵攻停止は、タルノフ王の評価を二分することとなった。
ラダマンドン時代
クルチャップ・モレ講和会議は終始ロドゥニ=ローワンに有利な形で展開された。
“大街道”維持のために既に巨大な駐屯軍を各地に抱えたロドゥニ=ローワンはこれ以上の直轄地の増加を嫌い、アッタルマヌンは引き続き自治が認められた。
ただし、アッタルマヌンにおける商業活動全体に35%の課税がかけられ、その他にも多額の賠償金の支払い義務、軍事通行権、各都市の駐兵権、クルチャップ・モレ及びバトゥナダールにおける市長決定の際の承認権、また河口に位置するリシラットや広大な農地をもつホンタルチなどの要所のロドゥニ=ローワンによる直接支配が条件として盛り込まれた。また、河の名前は先王ラダドルフにちなみに「ラダマンドン」に改名された。
これらの条約は実質的にロドゥニ=ローワンによる支配を意味し、この時代をアッタルマヌン史において「ラダマンドン時代」と呼ぶ。
ラダマンドン時代はアッタルマヌン商人にとって屈辱の時代として記憶されているが、必ずしも停滞の時代ではなかったことが特徴である。
まず、タルノフ王手動のもとで交易品の各品目ごとに厳格な交易権の規定がなされた。これによりマラカシャト系とアタル・マリニ系両民族の間に融和が生まれ、以前のような暴力を背景とした交渉が鳴りを潜めた。
また、後述する水軍増強により交易での船舶数が増加したこともラダマンドン時代の光の側面として挙げることができるだろう。
ラダマンドン時代の期間は、ロドゥニ=ローワンにおけるタルノフ王治世時代とおおよそ一致する。比較的穏健派として知られる二代目タルノフ王はこれ以上の専制化を望まず、統治は比較的に安定した状態を保った。
また、アッタルマヌン側も表向きは従順な態度を示し、条約内容も正しく履行した。先の侵攻でロドゥニとの軍事格差が自覚されたためである。
しかし、そのような現状もアッタルマヌン商人の独立の野心を妨げるものではなかった。面従腹背のアッタルマヌンとロドゥニ=ローワンとの関係は3代王ヴァルシーノフ時代まで続くこととなる。
ロドゥニ=ローワンの黄金期は3代ヴァルシーノフ時代であるとされるが、その黄金時代の一端を支えたのがアッタルマヌンから流入し蓄えられた富と穀物であることは間違いがない。アッタルマヌン側の従順な姿勢はロドゥニとの取引量を増やし、ロドゥニ=ローワンにおける食料供給率は年々アッタルマヌンへの依存度を高めていった。
“提督”ババ・ディノン
ババ・ディノンはタルノフ治世時代末期からヴァルシーノフ治世時代初期にかけてクルチャップ・モレの市長としてアッタルマヌン全域を束ねたアタル・マリニ人の指導者である。香辛料商人の家に生まれたババ・ディノンは若くして商才を発揮し頭角を表すと、ロドゥニ=ローワンの承認も受けてクルチャップ・モレの市長の座についた。市長就任後もその才覚を活かしアッタルマヌン全体の収入を向上させたためドワーフからの評価も高かったが、幼い頃より香辛料商人に課せられた重税への不満を間近に感じており、本人もひた隠しにされたその心のうちでロドゥニ=ローワンへの敵愾心を絶やしたことはなかったという。
独自の情報網により、穏健派のタルノフ王崩御が近いことを知ったババ・ディノンは水面下で軍事改革を開始した。
彼の改革の最大の特徴は、先の戦争で敗北を喫した陸軍から、水軍の大増強に方針を転換した点である。当時の船舶は、商船と軍船に構造上の差は殆どなく、そのため商船建造を隠れ蓑として水軍の拡張を図ることが可能であった。事実、この水軍改革以降には平時における交易での船舶数も増加し収入も増えたため、ロドゥニ側はこれを問題視していない。
また、陸軍としての民兵隊は解散され、水兵としての訓練が施された。代わりに陸軍には各国から資金力を背景に募集した傭兵団があてがわれた。
第二次ドワーフ侵攻
シウ照紀3166年、ヴァルシーノフ時代8年。
ババ・ディノンは既にアッタルマヌンに十分な実力ありと判断した。
これを踏まえ、アッタルマヌンはロドゥニ=ローワンに対して「雨季の河川氾濫による作物の育成不振」を理由に穀物の納入拒否を通達。当時既に食料供給率のうち50%近くをアッタルマヌンに頼っていたロドゥニ=ローワンにとって、これは明確な敵対的行為であった。
同年ベレイオン節一の月、ドワーフ王ヴァルシーノフはアッタルマヌン諸都市に対して宣戦布告。第二次ドワーフ侵攻が開始された。
ロドゥニ=ローワン側は前回の侵攻と同様に蝸牛騎兵部隊を主力とした陸軍による攻撃を開始。これに対しアッタルマヌンは都市による徹底的な籠城戦術で応じた。
ロドゥニ=ローワンの陸軍は依然として精強であり、防戦に耐えられなくなった各都市は次々と陥落したが、アッタルマヌン側はそれも見越し、増設した艦船で陥落直前の都市から食料や金品を移す作戦を敢行した。
陸軍の食料補給は占領地からの略奪に寄るものが大きく、アッタルマヌンのこの作戦はロドゥニ軍の食料事情に大打撃を与えた。
また、金品も移動されたため兵士の略奪による収入も減り、苦心して都市を落としても実入りがないとしてロドゥニ軍の士気にも悪影響を及ぼした。
ババ・ディノン自ら総指揮をとったアッタルマヌン水軍もロドゥニ=ローワン軍を苦しめた。
アッタルマヌン河沿岸を沿うように南下していたロドゥニ=ローワン軍は無防備な側面を常に河川に晒している状態であり、アッタルマヌン水軍によるゲリラ的な側面攻撃の危険性があった。
また、これらの軍船にはバリスタや火矢隊が搭載され、従来の攻撃方法では被害の少なかった蝸牛騎兵に対して効果的な打撃を与えた。
アッタルマヌン、ロドゥニ=ローワンの双方が相手を打倒するだけの決め手に欠いていたため第二次ドワーフ侵攻は長期化したが、3178年、突如としてロブルア王国がロドゥニ=ローワンを攻撃。奇襲を受けたヴァルシーノフ王はアッタルマヌンとの講話を求め、前回同様クルチャップ・モレでの講和会議の末、侵攻は終結した。
このロブルア王国の動きには、アッタルマヌンとの何らかの密約があったと考えられている。事実これ以降アッタルマヌンはロブルアに対して優先的な穀物供給などの条件を含んだ特権を与えている。
クルチャップ・モレ講和条約とその後
クルチャップ・モレ講和会議では、前講和条約の全面的な破棄が認められた。また、ロドゥニ=ローワンによるアッタルマヌンへの賠償金支払い、自治権の追認、交易に関する各種権利の承認、ロブルア-ロドゥニ=ローワン間の大街道使用におけるアッタルマヌン商人に対しての55年間の交通料無償化等が認められた。河の名前も「アッタルマヌン」へと戻った。
「提督」としてアッタルマヌンを勝利に導いたババ・ディノンは英雄として人々に刻まれ、その像は現在もクルチャップ・モレ市庁舎の前に設置されている。
一方、ドワーフには裏切り者の代名詞としてババ・ディノンの名が永遠に記憶されることとなった。